鳥居 強右衛門勝商公について

鳥居 強右衛門勝商公について

長篠の戦い

三河国長篠城(現愛知県新城市長篠)をめぐり、織田信長・徳川家康連合軍38,000と武田勝頼軍15,000との間で勃発した戦い。敗北した武田軍は甚大な被害を受けた。

密使として

武田の大軍に対して長篠城の守備隊は500人の寡兵であったが、200丁の鉄砲や大鉄砲を有しており、また周囲を谷川に囲まれた地形のおかげで武田軍の猛攻にも何とか持ちこたえていた。しかし兵糧蔵の焼失により食糧を失い、数日以内に落城必至の状況に追い詰められた。5月14日の夜、城側は貞昌の家臣である鳥居強右衛門を密使として放ち、約65km離れた岡崎城の家康へ緊急事態を訴えて、援軍を要請させることにした。

一転、囚われの身となった鳥居

鳥居は夜の闇に紛れ、寒狭川に潜って武田軍の厳重な警戒線の突破に成功し、5月15日の午後に岡崎城にたどり着いた。岡崎城にはすでに信長の援軍3万人が到着して、家康の手勢8千と共に長篠へ出撃する態勢であった。鳥居は信長や家康と面会し、翌日にも家康と信長の大軍が長篠城救援に出陣することを知らされた。鳥居はこの報告を一刻も早く長篠城に伝えようと引き返すが、5月16日の早朝、城の目前まで来て武田の兵に発見され、捕らえられてしまった。

磔の身でも、その命と引き換えに、城を守る鳥居

torii_tsuneemon_haritsuke.jpg最初から死を覚悟の鳥居は武田側の厳しい尋問に臆せず、自分が篭城軍の密使であることを述べる。武田側は鳥居の豪胆に感銘し、鳥居に「お前を磔にして、城の前に突き出す。そこで『援軍は来ない。あきらめて早く城を明け渡せ』と叫べ。そうすればお前を助命する」と取引を持ちかけ、鳥居はこれを承諾した。翌朝、城の前に磔りつけ柱が立てられ、そこに裸で縛りつけられた鳥居は、「俺は、使いに出された鳥居強右衛門だ。敵に捕まり、この始末になった。城中のみな、よく聞け」と呼わばった。

集まった城兵に向かって鳥居は、武田との打ち合わせとは逆に「あと二、三日で、数万の大軍が救援にやってくる。それまで持ち堪えよ」と大声で叫んだ。鳥居はその場で武田軍に殺されたが、城兵の士気は大いに奮い立たち、援軍到着まで城を守り通した。

そして、勝利をつかむ織田・徳川連合軍

織田・徳川連合軍の分遣隊が包囲を破って救出に来るまで武田軍の攻勢を凌ぎきったその結果、同月21日の長篠の戦いにおいて織田・徳川連合軍は武田軍を破り、勝利をおさめることができた。

長篠城の命運を一心にうけ、君主を思う忠誠心からの勝商の功績は、今なお三河武士の鑑として讃えられている。

当山に眠る、三河武士、鳥居 強右衛門勝商公

当山にはその霊を弔う墓が御座います。しかしながら鳥居氏の子孫により、墓は1603年(慶長8年)に強右衛門の妻の故郷である作手村甘泉寺へ移設され(一説には織田信長が強右衛門を弔うために建立させたと伝えられております)、その後、1763年(宝暦13年)に有志の手により新しく新昌寺に再建され現在に至り、今なお手厚く御供養されております。

最後になりますが、当山の鳥居強右衛門勝商公の墓碑に刻まれている辞世の句をここに記します。

「わが君の 命に替る玉の緒を などいとひけん 武士の道」

鳥居 強右衛門勝商公の供養塔新昌寺の一角に建立された鳥居閣は、鳥居 強右衛門勝商公を供養するために建立されました。

 

鳥居 強右衛門勝商公のご供養鳥居 強右衛門勝商公を祀る祭壇は、この鳥居閣の内部にあります。

 

鳥居 強右衛門勝商公の木像長篠の戦いにて、武田軍により囚われの身となった鳥居 強右衛門勝商公。
その様子を彫刻した木像も、当山の鳥居閣にて大切に保管されています。

 

鳥居 強右衛門勝商公の墓鳥居 強右衛門勝商公のお墓も、新昌寺にて管理されています。

 

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